パリピ孔明は三国時代の名軍師、諸葛亮孔明が現代へと転移し、音楽という文化に興味を持ち、駆け出しシンガーソングライターの月見英子の軍師となり、彼女を世界的に有名なアーティストへと導いていくストーリーの作品です。諸葛亮孔明と言えば、かの劉備玄徳に仕え、彼の右腕として活躍したことで有名です。本作では劉備は登場しませんが、三国志のエピソードはたくさん出てくるので、三国志における劉備や関羽、張飛などのことを知っておくとより楽しめると思います。今回はその劉備・関羽・張飛らについて簡単に紹介しておきたいと思います!
目次
劉備元徳の生まれはどこ?当時は貧乏だった劉備
涿郡涿県(現在の河北省保定市涿州市)楼桑里の出身で、土豪の出身でしたが、父親が早くになくなったため貧乏な生活を送り、母とともに筵を織って生計を立てていました。儒学者である盧植の下で学問を学んだとされていますが、真面目に学問を修めたわけではなく、その期間も短かったとされています。
劉備玄徳はどんな人物だったのか?
劉備玄徳は義理人情に厚く、彼の元には多くの優秀な人材が集まり、度量と意思の強さを兼ね備えた聖人君子のような人物というイメージが一般的ですが、それは劉備と諸葛亮を主役に描かれた創作小説「三国志演義」による脚色がなされています。確かに義理人情に厚く、意志が強く大きなカリスマ性を兼ね備えていたのは事実でしょうが、一方で敵対していた袁紹や曹操、孫権の勢力を渡り歩き、裏切り裏切られた末に一国の主となり皇帝に昇りつめた過程には、三国時代におけるトリックスターと言えるかもしれません。
劉備玄徳、黄巾の乱で旗揚げする
当時、世の中は腐敗した政府によって荒れに荒れていました。そこで、カルト教祖の張角が不満を持った民衆を煽り、各地で武装蜂起させます。その際に黄色い頭巾を被ったことから黄巾の乱と呼ばれ、劉備はそこで集った関羽・張飛をはじめとする仲間たちと義勇軍を結成し、多大な戦果を挙げます。
各陣営を渡り歩く劉備
劉備はその戦果から当時の警察署長の地位を得ますが、見回りの役人をボコボコにしたことから、旧知の中の公孫瓚の元へ身を寄せます。曹操軍に攻められていた徐州の陶謙を助け、陶謙はその死後に徐州を劉備に託します。しかし、そこでかの有名な猛将、呂布奉先に裏切られて徐州を失い、今度は曹操の元に身を寄せます。その後、劉備は曹操とともに呂布を撃破し、曹操は劉備を高く評価し、重要な役職にも付けるのですが、あろうことか劉備は曹操を暗殺しようと企て、その企みが曹操にバレて、今度は公孫瓚を破り河北の支配者となった袁紹の元へ身を寄せます。
孔明先生との出会い
袁紹は官渡の戦いにて曹操軍のひげにボコボコにされたため、劉備は袁紹の元を離れ、荊州の劉表の元へ身を寄せます。ここまでで散々挫折を繰り返してきた劉備は、その原因が作戦を立てる軍師的な人物がいないからだと考えます。劉備たちは多大な戦果を挙げてきた傭兵集団で、作戦を立てる頭のよい配下がいなかったからです。そこで劉備は、諸葛亮の元へ三度足を運びようやく配下になってもらうことが出来ます。これが有名な三顧の礼です。
長坂の戦い~赤壁の戦いへ
208年、曹操軍が荊州へ侵攻し、劉表から荊州を継いだ劉琮が降伏してしまったことにより、劉備は孤立し、民を連れて南へと逃れます。劉備は妻子を捨てて逃げ出し、張飛や趙雲らの活躍で呉へ落ち延び、その後208年に赤壁の戦いが起こり、孫権・劉備の連合軍が曹操軍を撃破します。その後、呉の好意によって荊州南部を借りることになるのですが、多分一生借りる気でした。
関羽・張飛没……夷陵の戦いへ
荊州南部を平定し、益州を取った劉備ですが、孫権との関係は悪くなっていました。そもそも好意で貸してたつもりの荊州をあたかも自分ものだとしていたからです。天下三分の計はなされたように思いましたが、荊州の守りについていた関羽が樊城の戦いにて破れ、弔い合戦と重要拠点の荊州奪還のための準備段階で張飛が暗殺され、失意の中望んだ夷陵の戦いでは、呉の武将、陸遜の火刑により歴史的な大敗北を喫してしまいます。
さよなら劉備……意思を受けつぐ諸葛亮孔明
夷陵の戦いで歴史的な大敗北の末、何とか蜀へとたどり着いた劉備でしたが、義兄弟を失い、国が傾くほど致命的な敗北により病に倒れ、自分亡きあとのことを諸葛亮に託します。子供たちには諸葛亮に従うように言い聞かせ、もし子供たちに才がなければ諸葛亮が皇帝になれと言い残して崩御します。これ以降、三国志演義では孔明が中心となって描かれることとなります。
義に厚い劉備の義兄弟!関羽についての紹介!!
関羽は三国時代を代表とする言わずと知れた猛将で、その才覚は劉備のみならず曹操からも高く評価されました。黄巾の乱にて義勇軍として劉備らに集い、張飛とともに戦果を挙げます。このとき集った劉備・関羽・張飛は義兄弟の契りを交わします。これがかの有名な桃園の誓いですが、史実では特にそんなことはやっていなかったようです。桃園の誓いは三国志演義の脚色です。
関羽について有名なエピソード
関羽について有名なエピソードとして、官渡の戦いがあります。実は関羽は一度曹操に降伏し、彼の元で武将として働いていました。事の発端は劉備が曹操を暗殺しようとしていた計画がバレて、曹操がキレて劉備を攻め、劉備は袁紹の元へ逃げます。ここで劉備は関羽を見捨てたようにもとれるため、劉備関羽実は不和説なんてのもありますが、曹操は関羽を高く評価していたため、なんとしても仲間に引き入れたいと思い厚遇します。曹操は袁紹軍と戦う際に関羽を使い、関羽は袁紹軍をボッコボコにし、さらに曹操は関羽を評価します。曹操はあらゆる手を使って関羽を仲間にしたいと思いますが、劉備への忠誠は揺らがず、その忠誠心を評価し結局曹操は関羽を諦め、劉備の元へ帰ることを止めませんでした。
酒好きの猪武者!張飛についての紹介!
張飛は劉備の義兄弟として重用され、武勇では無類の強さを誇った酒好きの猪武者として有名な武将です。三国志演義のイメージでは武勇には優れるものの頭は良くないけど、なんとなく憎めないジャイアンみたいな猛将で、酒に呑まれて度々やらかすこともありました。ただ、三国志演義では本当は劉備がやらかしたことを張飛がやったことにされているエピソードも存在します。劉備が当時の警察長官の地位についていたとき、張飛が中央から来た監察官をギタギタにしてしまったというエピソードがありますが、あれは本来劉備がやったことです。当時のお上は腐敗しきって世の中荒れ放題だったため、クソみたいな役人が許せなかったのかもしれません。
張飛について有名なエピソード
張飛で特に有名なエピソードは、長坂の戦いでの活躍でしょう。荊州にいた劉備は、その地を治めていた劉琮が曹操に降伏してしまったことで孤立してしまいます。劉備は曹操を裏切って殺そうとしていた過去があるので、このまま荊州に留まれば曹操に殺されるのは自明の理。劉備は民を連れて南へ逃れようとします。しかし、民草を連れてまともな進軍速度が出るわけもなく曹操の先兵に追いつかれてしまいます。そこで活躍したのが張飛であり、寡兵ながら劉備たちの殿を務め、曹操軍の追撃を止めたのです。このとき劉備は妻子をおいて逃げ出すのですが、それを救ったのがかの有名な武将、趙雲です。
関羽と張飛の最期と人物像について
関羽は樊城の戦いで命を落としますが、その原因は仲間の裏切りや、関羽を恨むものたちによるものでした。関羽は自分の認めた人物に大しては聖人でしたが、同僚の、特に知識人層に対してはかなり当たりが強かったのです。学歴コンプレックスを拗らせた感じで同僚からの評判が悪かった関羽はそれが大きな隙となってしまったのです。また、張飛は目上の人物に対してはいい顔をしますが、目下の部下に対してはかなり当たりが強く、殴る蹴るのパワハラは当たり前でそれが原因で大きな失態を犯したこともあります。それどころか、張飛は夷陵の戦いの前に部下に暗殺されてしましました。
【パリピ孔明】劉備・関羽・張飛についてまとめ
パリピ孔明の主人公こと諸葛亮孔明は三国時代、劉備に仕えた名軍師です。現代で音楽に興味をもった孔明は、三国時代の孔明には似つかわしくありませんが、史実を多少なりと知っておくとさらに面白くなる作品です。アニメは2022年4月から予定されているので、ぜひ見てください!