さらざんまい 11話が公開されました。私は勝手に12話と思ってたのですが、、、なんと最終回!まじか!?確かに、最後の10分くらいは次回はなんの話をするんだろうと疑問に思ったりしていましたが、まさか今回が最終回だったとは。。。と言うことで、今回はアニメ最終回の簡単なあらすじと考察をさせていただきます。
アニメ11話の簡単なあらすじ
絶望へと入っていった悠。そんな悠は過去の自分を撃つことで繋がりを消していきます。悠を追いかけて絶望へと入ってきた2人と1匹。一稀は悠と初めて出会い、ミサンガをもらった4年前の繋がりを撃たれることを危惧して、4年前の世界へと移動しようとします。そこに現れたカワウソが邪魔をしにやってきますが、ケッピが応戦。4年前の世界に一足先についていた悠は、まず兄の誓を撃ちます。そして、4年前の自分を撃とうとするのですが、そこに登場した一稀と燕太に阻止されてしまいます。そこから、話は急展開。黒ケッピが過去の悠を撃って、3人の繋がりが消されそうになっていく中で、3人はさらざんまい 。そして、黒ケッピとの最終決戦へ。無事に黒ケッピとケッピが融合し、プリンスとなります。その後は、3人のこれからの未来になる可能性の描写が続出。そして、プリンスはプリンセスのサラと結ばれます。そして、悠は罪を償うためにED歌中に刑務所へ。ED後のいつもの描写の折に刑務所を出てきた悠とそれを迎える2人。そしてOP曲が再び流れて、最後はいざ、未来へと言う流れ。ええ。文字だけでは伝わらないのはわかっています。
ケッピの目が赤いのはデフォルトだった
欲望を手放すな!と言うのは、レオとマブが発していたことからカワウソ側の言葉であると思っていましたが、あの言葉は河童側のお話かもしれませんね。欲望と絶望という言葉の意味は、欲望とは、不足を感じて、これを満たそうと望む心。絶望とは、望みが絶えること。カワウソがケッピに「自らの絶望を持て余し切り離した」といっています。つまり、黒ケッピと分裂したケッピには絶望がなかった=望みが無くならない。だから目がカワウソのように赤いんだ、っておっ持ってましたが、融合したケッピの目も赤かったですね。
河童は何を象徴していたのか
カワウソは概念と説明がありましたが、では河童とは何の象徴だったのでしょうか。望む心、欲望の象徴だったのでしょうか?最終話でサラが欲望を紡ぐ者だけが・・・といっていることからも、河童=欲望のように感じられるのですが、そうだとするならば、カワウソが全て河童から生まれたこととなり、物語のコンセプトと序盤の愛と欲望の流れからして、少しおかしな構図に感じられてしまいます。初めのうちは、愛と欲望が対比的に描かれており、愛は誰かに○○してほしい。欲望は、自分が○○したい。というように描かれていました。一稀に笑っていてほしいという、愛。笑顔を取り戻した一稀。そして彼は人との繋がりを手に入れます。キスゾンビは、キスしたかったんだーとカパゾンビになっていました。欲望と表現された彼らは繋がれない者たち。そうやって記憶からいなくなってしまいました。そして、河童は愛と欲望の狭間に生きる生物でした。そして物語の焦点は、絶望とケッピの融合に合わせて、やはり人との繋がりを描いているのでした。そもそも河童橋の由来は、人と河童の繋がりが名前の由来となっています。そう考えると、河童とは「人との繋がり」の象徴として描いているのではないでしょうか。価値観の多様化した社会に置いて、そんな中でも、他を許容しつつも利己主義になってはいけず、人と繋がっていく(浅草は下町で、元来人の往来の激しい街)ことの大切さを描いた作品だと感じました。
よくわからないことは色々あった
最終回、よくわからないことはたくさんありました。推測とともに記載しておきますが、皆さんの解釈を教えてもらいたいなって思います。
・なぜレオとマブが復活したのか?
予測:2人は繋がりを取り戻したから。
・ケッピの持っていたお皿と次の意味
予測:人気が出たら続編やりますよ。
・カワウソは希望の皿を集めて、何をしようとしていたのか?
予測:欲望に沿った事柄
とにかく、さらざんまい 、名アニメでした!