個性豊かで魅力的な五つ子達が登場する大人気ラブ&コメディー作品「五等分の花嫁」。数々の可愛らしいキャラクターを前に、薄暗い部屋でテレビに向かい合いながら、ただただにやけてしまうなんてことが多々あるほど思わず凝視してしまうこの作品ですが、当然のことながら作品を通して作者が伝えたいテーマを示唆する描写やストーリー展開が数多く見られます。今回はそんな普通に見ていると見落としてしまう作品としての「五等分の花嫁」のテーマについて細かく解説していきたいと思います。たかがラブコメされどラブコメ。ほんわかとした気持ちで見てしまいたくなるアニメだからこそ、周りが見落としてしまうテーマを拾ってみる必要があるのだと思います。なぜ四葉が選ばれたのか等、作中のテーマを分析することで明らかになることもたくさんありますので、最後までこの記事を読んでいただけると幸いです。
目次
「五等分の花嫁」のテーマとは?
さて、冒頭でいきなり言ってしまいますが、ズバリ「五等分の花嫁」のテーマは「個性の獲得」なんだと思います。数多くある本作の設定や作中に起こるイベント等は「五等分の花嫁」のテーマが「個性の獲得」であるという事を前提に考えた瞬間にそれらの全てに辻褄が合うようになっています。つまり、どの設定やイベントも作者がこのテーマに気づいて欲しいがために考えたものであると推測できるわけです。それではどうして「五等分の花嫁」のテーマが「個性の獲得」なのか順を追って説明していきたいと思います。
みんな同じ顔
当然五つ子なので姉妹全員が同じような顔、同じような体型をしているわけですが、そもそもどうして顔が瓜二つの五つ子達をヒロインにするという発想に至ったのでしょうか?この五つ子という設定も作品テーマが「個性の獲得」であると考えた瞬間に作者の意図がわかるようになります。つまり作品のテーマを「個性の獲得」として考えた時に、個性を獲得するのであれば、ヒロイン達それぞれが特徴を持っていないキャラであったほうが都合がいいはずです。
五つ子は元々一つだった
しかし、五つ子達がまったくの無個性であると言われた瞬間に少し違和感を覚えた人も多いと思います。確かに五つ子達はそれぞれが似たような顔してるとはいえ、見分けがつきやすい特徴的な性格や外見等の個性をすでに獲得しており、とてもそれぞれが無個性であるようには思えないですよね。しかし、作中ではしっかりと五つ子たちが無個性であった時があることが示されています。そうです、五つ子達の母親が生きている頃はみんなが同じような格好をしていてまったくの無個性でしたね。つまり五つ子達の現在の姿というのは元々無個性であった状態からそれぞれが自らの個性を獲得しようと努力した結果行き着いた姿である訳です。
なぜ人は個性を身に付けるのか?
それではなぜ五つ子達が個性を獲得する必要があったのでしょうか?この問題はこの作品だけでなく現実の子供の成長過程にも共通するものです。子供のころは父親や母親がいるので個性を獲得する必要はありません、なぜなら個性がなくとも父親や母親は自らの子供を無条件で扶養してくれるからです。しかし、子供は成長するにつれ自分の両親から自立しなくてはならなくなります。この親の扶養から脱却する際にそれまでは無条件に手に入れることができていた家族といったものが「誰かに選ばれなくては手に入れることができないもの」になってしまうのです。本作の五つ子達の父親が寂しそうに「最近うちの娘が色気付いてきた」と語るのには背景としてこのような子供の深層心理がある訳なのです。「五等分の花嫁」ではこのような成長過程を五つ子という特殊な設定を用いることによってわかりやすく表現することに成功しているのです。
そこから導かれる「何故四葉なのか?」という謎
「五等分の花嫁」の設定に隠された成長についてわかっていただけたと思いますが、この事が分かればなぜ風太郎が四葉のことを選ぶのか?というラストに作者がしたかったのかが見えてくることと思います。
ファーストペンギン
四葉が風太郎に選ばれた理由として最も大きなものは四葉が誰よりも早く、そして強く五つ子という共同体から脱却しようとした、いわばファーストペンギンであったということが挙げられると思います。単に「過去に京都で風太郎と会ったから」という考え方をしている人が多いと思いますが、これは作中で風太郎が五月扮する零奈に対して明確に拒絶していることからも「過去に京都で風太郎と会ったことが分かった事が一番の風太郎が四葉を選んだ原因である」という様に考えるのには少し無理があります。
四葉が個性を獲得した理由
前記したように成長するという事は、すなわち両親の扶養からの脱却という目的を絡んでいます。だからこそ四葉を筆頭に母親の死後、五つ子達全員がそれぞれの個性を獲得しようと努力する姿が描かれているのです。しかし四葉の場合は例外として母親が死ぬ前に個性を獲得しようと努力していました。母親にリボンをつけた自身を見せに行くなど以前からどの五つ子達よりも早く個性を獲得する努力をしていた訳です。彼女の場合は決して誰かに選ばれたいということではなく貧乏で苦しい状態に置かれている家族のために自身が頑張らなくてはならないという意識からの脱却欲であったように見受けられますが、結果としてその言動が風太郎の心を突き動かし彼と結ばれる一つの要因にもなる訳ですから、ここら辺は巧妙に隠しながらも結果論で見ればわかるように作者の仕込んだ難易度高めのテーマであると言えるでしょう。
母親の違和感
これまでの内容を理解できれば、なぜ母親が四葉のリボン姿に対して良い反応をしなかったのかわかる事と思います。両親からしてみれば当然自分の可愛い娘達にはずっと自分の手元にいて欲しいという欲がある訳で、母親が四葉のリボン姿に良い反応をしなかったのはまだまだ自分の娘を自分の手で守っていきたいと言う母親の母性本能故の反応であると言えるでしょう。
家庭教師としての風太郎と男としての風太郎
風太郎は「五つ子達にはいつでも一緒にいてほしい」と発言してるなど一見矛盾してるように思いますが、風太郎の「五つ子達にいつでも一緒にいて欲しい」という言葉は「彼女たちに対して全く同じ存在としていつまでも自分の手元にいて欲しい」ということではなく、それぞれがそれぞれのあるべき姿でうまくやって欲しいという理性的な面での願望であって、男性としての風太郎は五つ子達の中から一人を残酷にも選んでいるので見方を変えれば四葉以外のすべての五つ子達に対してNOを突きつけている訳です。四葉を恋人として選んでいる以上「五つ子達にはいつでも一緒にいて欲しい」という言葉は、風太郎は本心で言ったのでしょうがあくまでも一人の家庭教師として理性的に答えたものであって、男性としての風太郎の意見とは異なるということがわかると思います。
母親と風太郎
五つ子達に対して全員が揃って共同体として存在していることを望んだ母親と、五つ子達の中から特別を一人選んで自らのものにした風太郎の違いがうまく描写されているのが分かったでしょうか?母親と好意を持った男性という全く方向性の異なる人間に板挟みにあるという状況があるからこそ五つ子達は葛藤をしながら前に進むことになるわけです。
結婚後の花嫁が誰なのか一気に分からなくなる理由
それではなぜ、個性を確立した先にいるはずの花嫁が誰なのか分からなくなってしまうのでしょうか?このことにも作者が仕込んだ奥の深いテーマが潜んでいるのです。
伏線回収!!おじいちゃんの「愛の力」
ここで五つ子達のおじいちゃんが言っていた「愛の力」の伏線が回収される訳です。花嫁が誰なのかわからなくなったのは個性がなくても自分にとって特別な人に見分けてもらえるようになったからなのではないでしょうか?初めのうちは自身がどういう人間でどのような存在なのか相手に分かってもらうためにわかりやすくする必要があるのですが、一緒にいる時間が長くなるにつれそのような特徴なしでも自分を理解してもらえる存在に相手がなることでアイデンティティーを強調する必要がなくなります。この特徴という外見を見分けるのではなく、外見の先にある中身を感じ取ることができる力というのがおじいちゃんの言う「愛の力」なのではないでしょうか?母親の元を離れ、誰かと一緒になるために自身のアイデンティティーを強調し、運命の人が見つかった後は当然自身のアイデンティティーを強調する必要もなくなるので元の自然の姿に戻ると言うプロセスがうまく表現されているのです。
五つ子達は他の男性と結婚できていないという事実
これらのことが理解できれば、もう一つ面白い事実が推測できるようになります。元のアイデンティティーを強調しない姿に戻ったのは風太郎と結婚した四葉だけでした。他の五つ子達は私たち読者が見てもわかるように高校時代のようにいまだに自身の個性を主張するような服装をしています。つまり他の五つ子達はいまだに他の男性とは結婚に至っていないということが暗に示されているのです。同時に五つ子達の中から一人を選別した風太郎の行いの残酷な一面が際立つような描写にもなっているのです。
まとめ・【五等分の花嫁】は四葉の成長物語を風太郎の目線から描いた物語だった!!
いかがだったでしょうか、以上の「五等分の花嫁」に隠された本当のテーマをを噛み砕くと、案外深いテーマが隠されていたことがわかったのではないでしょうか?本作は一見主人公の風太郎がメインに描かれている作品のように思ってしまいがちですが、風太郎は作中を通して大した成長はしておらず風太郎の心情変化をベースに描いた作品では無いのです。むしろ重要なのは、四葉がどのように成長し、風太郎に選ばれることとなったのか?という過程が四葉ではなく、あえて相手方の風太郎目線から描かれていると言う特殊な構造になっている事でしょう。そのように考えると、かわいい女の子達がゴッチャになってワイワイしているアニメという頭の悪いけど男性が望む最高のシチュエーションに「いやこれは、少女達がまだ成長しきっていなくて、個性を獲得してはいるものの、受け手の風太郎がそれをまだ認識していないから、こんなかわいい女の子がゴッチャになったハーレム展開になっているんだ!」と論理的に説明を足す事ができるという、とんでもない理論武装がなされているラブコメなのです。まさか、ハーレムものに五つ子という設定を足すだけで、ここまでの奥深いテーマを作品に孕ますことができるとは、初めてこの作品のテーマに気づいた時に思わず「春場ねぎ先生すげえ!」とつぶやいてしまった程です。かわいいキャラクターを前にニヤニヤしながら凝視して観るのにはずいぶんもったいない作品となっていますので皆さんもぜひ、自分なりの考察をしながら二期を観てみてください。